Nmoominのブログ

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河瀬直美『光』を見た。

先日、飛行機の中で河瀨直美監督の映画『光』を見る機会があった。

彼女の作品は『萌の朱雀』と『殯の森』を見たことがあるが、どちらも自然や人間どうしの間の撮り方が上手く、お気に入りの作品だったのでそこそこ期待していた。

実際、先述の撮影技巧のみならず俳優の方々の演技が素晴らしく、作品の中に引き込まれた素晴らしい映画だった。


話はこうである。
視覚障碍者のための映画音声ガイドを作成するヒロイン・美佐子がとある映画のガイド作成のための意見交換会で視力を失いつつあるカメラマン・雅哉と出会う。 美佐子の作ったガイドを「これなら、ない方がいい」とバッサリ切り捨てる雅哉に苛立ちながらも徐々に彼に惹かれて始め… 
といった具合だ。

以下にこの作品のどこが良かったかをネタバレ含めて書き留めておく。


まずこの映画が扱う主題の一つである「言葉の力」について。
基本的には美佐子が作った映画ガイドについて視覚障碍者の人たちを招いて意見交換会を繰り返して開きながら話は進んでいく。
雅哉から厳しい言葉を浴びせられる美佐子だが、実際に彼女の作ったガイドは素人目でもあまり上手くないということが分かる。 
このシーンでハッとさせられるのは視覚障碍者の人たちから発せられる台詞の数々。
雅哉から最初に指摘されるのは「このガイド、君の主観だよね」という一言。 
その他にも「ガイドに間が感じられない」、「私達の想像力を信じて欲しい」(これはうろ覚えだ)
など。
最も説得力を持って胸に響いたのは役者の中で一人だけ入っていた実際の視覚障碍者の方の
「自分たちはスクリーンを観ているんじゃない、映画の中に入って、もっと広い世界を感じている」
という台詞。これはしかもアドリブらしい。*1

台詞それ自身だけでも素晴らしいけれど、やはり実際の視覚障碍者の方に言われると言葉の重み、響き方が断然に違う。これはある意味ズルい。
私達は普段言葉を介して意思疎通を図るわけだが、如何に視覚や聴覚といった他の感覚に頼っているかということに気づかせてくれるのである。
この文章もそうであるし、映画や美術、読書など芸術一般の論を説いてみようとしたときに自分の語彙力もしくはそれに付随する想像力の貧困さに悩む自分にとって、彼らの台詞は余りにも瑞々しく、美佐子を通して自分自身への指摘にまさしく感じられるのだ。 


特に良かったシーンの一つはカメラマンの雅哉が美佐子の顔をその大きな手で触り、撫でるシーン。
余りにも生々しく官能的で、性行為の隠喩どころか性行為そのものじゃないか!と思ってしまったほど。と思ったやっぱりそれを意識して撮っていたようである。*2
大成功です、監督。
似たシーンとして新海誠の『言の葉の庭』中に出てくる足の採寸シーンがあるが、こちらは実写の分、よりリアルだった。

続くシーンで、美佐子と雅哉が一緒に思い出の夕日を見に行って彼が大切にしていたカメラを投げ捨て直後にキスする場面。(ポスターでも使われているところ)
かなり大胆で急なシーンだが命よりも大事なカメラを投げ捨てた後に相手を慈しむように、愛おしむようにするキスは光の使い方も相まって非常に情熱的かつ芸術的。そもそもその前に(ある意味で)性行為をしているのでここでのキスは個人的に納得できるし自然だ。


映画の終着点は、劇中で出て来る映画のラストシーンのガイドをどうするのかというところである。
劇中の主人公である老人は消えた妻を追い求めて海岸を歩いて行く。 
そこには大切なものを失ってもなお人は生きていく、生きてなければならないというメッセージが込められているわけだが、そこにカメラを失った雅哉が重なる。 
そうして美佐子が考えついた末にたどり着いた答えが「光」で、話としてよくまとまって出来ているなぁと素直に感心した。


河瀨直美の映画には、画の中の俳優たちがまさに生きているように感じられる魔力のようなものがある。それは彼女独特の撮影哲学や手法に依るところが大きいのだろうし、そういうところが評価されて今までカンヌで多くの賞を受賞しているのだろう。
レビューサイトなどを見て回ると、「眠くなる」「退屈」「人の顔のアップばかり」などとネガティブなものが多く余り人に勧めづらい映画監督の一人であるが、今回の「光」は比較的分かりやすく退屈することなく見れるのではないかと思う。
もし機会があったら是非見て欲しい映画の一つだ。